禅とバクティの家内論争

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(「文章の学校」第1回提出課題、自己紹介文の書き直し)

「結局は何もない、無だ」という考えは好きじゃない。

このことでよく同居のパートナーと議論になる。禅が好きというイギリス人写真家の彼は、毎晩缶ビールの後にワインを一本空ける。のんべえのくせに、彼の写真は透明感あって美しい。

いくら「禅はイイ」「すべては無だ」と口で言っても、美しさを信じる人は腹の底のほうで無を超えた「有」を認めているに違いない。

イギリスに留学中、私はバクティヨガという体を動かさないマントラ瞑想のヨガに出会った。卒業後、インドの東側、ベンガル州にある寺院で半年間ご厄介になる。ガンジス河とヤムナー河に囲まれ、南国の緑に神聖な水が染み渡るような聖地で。

約五百年前、インドのルネサンス期にそこで生まれたバクティヨガは、「献愛のヨガ」を意味する。自分を捨て去るのではなく、愛と信頼をもって捧げ出す。すべては「人知を超え、一つであると同時に異なる存在」と言われている。

違いがあってこその愛情、献愛なので、禅が教える「無」ではなく「有」を基本とする。その考え方に、以後十年来ずっと憧れてきた。

今パートナーと私はまるで正反対の思想のもとに生きている。彼が全否定すれば私は全肯定。私が精神生活を尊ぶと、彼は浮世の享楽に生きる。思想を語れば決まって議論になるが、大体がビールとワインの後なので、飲まない私が何となく勝っているうちに彼の「おねむい」時間が来る。

けれども、このくらい違っていた方が風通しがよく、自由になれていい。彼がいい加減でダイナミックな分、私も(対極で)普段よりダイナミックになれる。

写真を撮るときも文章を書くときも、もし余分なものが入っていたら美しさが損なわれてしまう。バクティヨガでも献愛者、奉仕者としての自己を見出すために、徹底的に心を浄化しなければならない。

どんなにたくさん削っても、その先に残るのは「死」ではなく「愛」だ。